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今月の法話

令和元年10月 No.378
とらわれないとは りしめないこと

 仏教では我々の苦しみの原因は執着にあると説かれます。執着とは、とらわれのことで、別の言い方をするならば、こだわるとか握りしめるということもできるでしょう。人は皆、好きな人や大切なものにとらわれて生きています。とらわれたりこだわったりして、離れられない、捨てられないと嘆き悲しんでいます。そして握りしめれば握りしめるほど、それを失った時の悲しみは深いのです。

 あるご門徒さまのお宅の仏さまには、毎朝、哺乳瓶に入ったミルクのお供えが上がります。幼くして亡くなったお子さんを思って、作りたてのミルクを毎朝欠かさずお供えするのです。50回忌を済ませたこのお母さんは、「私は1日たりともこの子のことを忘れたことはありません」と涙ながらにおっしゃいます。あの子がもし生きていればと今まで何度考えたことでしょう。「死んだ子の年を数えるようなこと」という表現があるように、世間では悔やんでいても仕方がないと、いつまでも思い悩んでいることを戒めます。しかし、阿弥陀さまはそうはおっしゃいません。辛いね、悲しいね、泣いていいですよと涙を許してくださいます。愛しい我が子を忘れることができないと涙しているものに、我が子から離れていきなさいという言葉ほど厳しい言葉はありません。

 阿弥陀さまは、我々のことをよくご存知くださいました。とらわれから離れることができずに、苦しみ、悩み、泣いているものを決して一人にはしないとおっしゃいます。浄土真宗は、執着を離れ、苦悩を克服する教えではありません。とらわれから離れていくことができない私たちをお見捨てにならない阿弥陀さまのお慈悲を喜ぶ宗教です。

福岡県糸島市 海徳寺 松月 英淳

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