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今月の法話

令和3年9月 No.401
帰去来 大切たちの浄土

 9月はお彼岸を迎えます。彼岸とはお浄土のことです。そしてお浄土と言えば、私は父の事を思い起こします。父が亡くなったとき、私はご法事に出かけていたのでその死に目にはあえませんでした。しかし、私はそのとき「これはこれで良いんだ」と思いました。それは昔、父の法話から学んだことを思い出したからです。

 父が布教であるお寺に伺っていたとき、自分のお寺から布教先の父のもとに「父(筆者の祖父)が危篤です」という連絡が届きました。父は布教先のお寺の住職に相談したそうです。「申し訳ありませんが自分のお寺に帰ってもよろしいでしょうか。明日以降の代わりのご講師は私が見つけますので」と。するとお寺の住職は「布教使とは、親の死に目にもあえない覚悟を持たれた方々ではないのですか?」と言われたそうです。これは誠に厳しい言葉ですが、父はこのことを「確かにその通りでした。布教使として大切なことを忘れていたのかもしれません」と法話の中で話しておりました。

 父がお浄土へとかえったとき、私は法事を勤めていました。み教えを伝えるという点では、法事も布教と何ら変わりはありません。だから「父の死に目に会えなかったのはこれで良いんだ」と思いました。なぜなら、それを一番分かっているのが父だということを知っており、そしてそのことを過去に私も学んでいたからです。

 お彼岸とは、大切な方が待たれているお浄土へと心を向けるごです。それと同時に亡き方が残してくださった大切な浄土への歩みを、しっかり学び取っていくご縁でもあります。それが汲み取れたなら私たちのお浄土への歩みも、より確かなものになっていくと思います。

熊本県八代市 大法寺 大松 龍昭

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