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今月の法話

令和6年9月 No.437
られたれず墓参

 4年前のある日のことです。その日に月参りに向かったお宅は、近くまで行けば直線の道路に入り、そこをしばらく走って丁字路を左折した先にある、それは百も承知しているのです。ところがその日、私はその丁字路を通り過ぎてしまいました。そして引き返した2回目も、なぜか私はその丁字路を通り過ぎてしまうのです。さすがに動揺しつつも、再度Uターンした3回目、私はスピードを落として充分に注意して走ったのですが、何とまたもや素通りしてしまったのです。「どうして?」と思い、車から降りてみると、先月まではその丁字路の角に立っていた古い小屋が、よくよく見たら解体されていて更地になっていたのです。「なるほど」と思いました。つまり、私がそのお宅への道を覚えていたのではなく、その小屋が大切な目印となり、私はそれにただ導かれていたに過ぎなかったのです。

 歳を重ねていきますと、今の自分があるのは、これまでの自分の努力と苦労があってこそと、口には出さずとも誰もがどこかで思っています。それは間違いではありません。歯を食いしばって、何度も涙を堪えて踏ん張って生きてきたお互いなのですから。しかし、阿弥陀さまの眼を通して我が身を振り返れば、きっと違った景色が見えてくるのではないでしょうか。

 つまり、人生には幾度も大切な局面があったはずです。その局面において、私のために目印・道標の役目をしてくれた人がいらっしゃったのではないでしょうか。そしてそれに導かれてはまた導かれていまの私がある、それが阿弥陀さまの眼によって明らかとなる私の真実だと思うのです。だとすれば、私にとってその方々はいったい誰なのでしょうか。それはまだ隣にいてくれている方かもしれないし、離れた所にいらっしゃる人かもしれなし、それは複数いらっしゃるに違いありません。そしてその多くは、すでに亡くなったあの方々である可能性が大いにあるわけです。

 亡き方に心を向ける仏縁をいただき、忘れかけていたその大いなる「ご恩」に気づかされたならば、どれほど幸いなことでしょうか。

 やがて秋のお彼岸を迎えます。

熊本県八代市 大法寺 大松 龍昭

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