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今月の法話

令和7年3月 No.443
さまをんでいますか 欲望んでいませんか

 御心。それは、願いで仕上がっております。その願いを本願といただきます。本願とは、「あなたを必ず救う。そのいのちを抱きとり、お浄土に生れさせ、仏にならしめん」という、浄土真宗のご本尊、阿弥陀さまの願いです。

 この私は今、生死といういのちを抱えた身です。生と死と書いて生死です。このいのちのありように目が向けば、なかなか受け入れ難いことがあるのかも知れません。それを、生死というのは苦なりとお釈迦さまはお示しでありました。生きる中で思い通りにならないことを数多く経験し、そして、いのち終えていくことも思い通りにならない。思い通りにならない一つひとつに、我々は迷い苦しみ、このいのちにさえ、不平不満をぶつけてしまうのです。

 いのちを見つめるというのは、なかなか深いことでしょうか。当たり前にあるいのちであると思うならば、「なんでこんな目にあわないといけないのか」とか、「もっとこうなればいいのに」という思いも持ってしまいます。このいのちに、私が願いを持ってしまうのですね。それが悪いわけではありませんが、このいのちに願いを持つならば、その願いはどこまでも底知れない願いとなっているのではないでしょうか。「もっともっと」と、尽きない願いに苦しんでしまう。そうした自分の願いに、我々は苦しむのです。

 だからこそ、生死のこの身を放っておかないと、阿弥陀さまが必ず救うという願いを起こされました。願いの方向が逆だったのです。そして、その願いが届いてくださったあらわれが南無阿弥陀仏のお念仏なのです。手を合わせお念仏申す姿、すなわち、仏さまを拝むその姿は、「必ず浄土に生れさせ仏にならしめん」という阿弥陀さま一方通行のお約束の中に、生死の身に気づかされながらも、お浄土を依りどころにしながら、この生死のいのちにこそ、唯一お礼を申すことのできる姿でありました。

 阿弥陀さまの願いを依りどころに、生死の迷いを超える唯一の大道、お念仏申す人生をともに歩ませていただきましょう。

福岡県那珂川市 真教寺 井上 浄英

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