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今月の法話

令和7年11月 No.451
命日はお浄土まれた

 先立たれた方に対する、残された者の正しい態度は「あなたの死を決して無駄にはしない」ということでしょう。その方のご命日は、ただ亡くなられた日でなく、いつ・どこで・どのように命を終えようとも、必ず浄土へ生まれさせ仏にするというさまに抱かれて、お浄土へご(往き生まれる)された日といただき、今を生かされ、いずれ終わっていかねばならない私自身の命を見つめなおすごとさせていただくのです。

 本願寺8代目宗主蓮如上人御文章(お手紙)には「老少不定」という言葉が何度も出てきます。これは、老いた者が先に命を終え、若い者は後ということは決まっていない。命を終えることに年齢は関係ない。更には年齢だけではなく、たとえ健康であったとしても死の縁にあえば、この命は終わっていかねばならないことを表しています。私たちは「いつか終わる」と考えていますが、現実は「いつでも終わる」命を縁が整い、たまたま生かされていたのでした。厳しい言葉ですが、この言葉によって現実を知らされた者は、生きていることが「当たり前」から、生きていることは「有り難い」と気付かされます。そこには、誰かが切実に生きたかった一日を、私は生かされているという感動・感謝・喜び・驚きがあるのです。

 大切な方との別れは寂しく、悲しいものです。「時間が解決してくれる」と聞きますが、この悲しみを癒し、安らかにしていくのは時間というだけでは不十分です。きっと折に触れ涙が流れることもあるでしょう。しかし、この別れにどのような意味があるのか。悲しいけれど、この別れによって大切なことを知らされた。この別れには深く尊い意味があった。「あなたのおかげで」と手が合わさるならば、きっと悲しみが悲しみのままでは終わらない道が開かれるはずです。

 最後に、親鸞聖人が晩年お弟子に宛てられたお手紙には「必ず、必ず浄土で待っていますよ」とあります。待っているというのは「来なくていい」ということでは決してないのです。そこには「あなたも来てください」という思いがあります。先だった方の姿はたとえ見えなくても、「また会いましょう」と心を通わせることができます。ご命日には、そのような思いで過ごしたいものです。

山口県岩国市 教法寺 筑波 敬道

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