法話を聞く・読む / 今月の法話 バックナンバー(No.436)

今月の法話  バックナンバー(No.436)

令和6年8月 No.436
見送るも見送られるも倶会一処

 私たちは出会いを重ね、その分別れも重ねてきました。

 今から10年ほど前のこと。大阪に従姉妹がいるのですが、ご主人がどうしても仕事の休みが取れないということで従姉妹の長男(あっくん)の運動会に父親代わりで参観に行きました。あっくんは私に懐いてくれていたので、とても喜んでくれました。

 運動会を終え、従姉妹のマンションでしばらく遊んだ後、あっくんとエレベーター前でさよならをしました。それまでずっとニコニコしていたあっくん。私がエレベーターに乗ってからもずっと笑顔で手を振ってくれています。その姿を見て、今日は来て本当によかったと思ったそのとき、エレベーターの扉が閉まりきるかというその瞬間、あっくんの顔がくちゃくちゃーっと崩れ、閉じた扉の向こう側から「うわーーーん!」と大きな泣き声が聞こえてきました。5歳ながらも意地らしく、寂しさや悲しさをえて笑顔を見せようとしてくれていたのでしょうか。それとも扉が閉まって初めて別れを意識したのでしょうか。エレベーターが動き、あっくんの泣き声は遠く小さくなっていきます。に過ごした時間が特別に感じられ、自分にかけられたあっくんの思いやその存在が愛おしくなり、なんだか急に、私の方も寂しくなりました。

 法語の「倶会一処」とは『仏説阿弥陀経』に出てくる言葉で、一処に会うという意味です。分け隔てなく一切全ての者を迎え取らんとする阿弥陀さまのお浄土のはたらきを表します。

 「さようなら」の語源は「左様ならば」で、その前後には省略された言葉があるようです。「そろそろ行かねばなりません」「左様ならば、お別れでございます」といった具合いでしょうか。阿弥陀さまのおはたらきにに遇い、別れていくならば、「さようなら」の言葉は随分違った響きを持ちそうです。

 「お互い、お浄土参りのいのちに仕上げていただきましたね」「左様ならば、また会いましょう」と、にお念仏申し、また出会える世界を仰ぎながら別れていける。別れの悲しさや寂しさが無くなる訳ではありませんが、それがご縁となってお浄土を身近に思うならば、それはお浄土のお育てであり、先立つ人のお導きでもありましょう。

滋賀県東近江市 浄光寺 藤澤 彰祐

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