法話を聞く・読む / 今月の法話 バックナンバー(No.439)
今月の法話 バックナンバー(No.439)
驕りは人間を滅ぼし争いは世界を滅ぼす
京都で寮生活をしながら法話の研鑽をしていたころのことです。社会課題について、グループディスカッションを通じて知見を深める講義がありました。子どもの貧困、ジェンダー、自死、環境問題などのテーマに対し「お念佛をいただいて生きる者はどう考え、どう行動するべきか?」と考えた私は、自らの知識や経験を活かし、「お供えの余剰をおすそ分けするための団体があるらしい」、「電話番号を公開して24時間自死に関する相談を受けている作家さんがいるらしい」と、具体的な行動や対策など何らかの解決策を提示するようにしていました。
そんな私に、毎度このように応える同期がいたのです。
「いつ何をしでかすか分からないのが私。危うい私をよくよく聞かせてもらいました。南无阿
弥陀
佛」
いつもこんな調子です。
「それで済ませたら、なんも解決せんやろう?」と議論をけしかけても、「思考停止か!」と食ってかかっても、「…南无阿弥陀佛、南无阿弥陀佛」と、どこ吹く風。
僧侶だって社会の一員。できることを考え行動すべきだと伝えると、
「そうやなぁ。一人の人間として、そうやって生きていかなあかんなぁ。でも、だからこそのお念佛やなぁ」そう言って彼は続けました。
「正しいことしよると思うときほど、お念佛に相談や」
彼のことばによって映し出されたのは、まさに、正しさを握りしめて拳を振りあげている私自身の姿でした。「驕りは人間を滅ぼし 争いは世界を滅ぼす」と掲げながら、我が驕りにすら気づくことなく争い続け、自分自身の命をも蝕んで、やがて滅ぼしてしまう。そんな「人間」も「世界」も「わたし」をおいてほかにありはしないのでした。
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
誰でもない、そんな「わたし」こそが南无阿弥陀佛のおすくいの目当てです。自身の正しさのなかにしか生きられない私だからこそ、かたときも離れずお念佛を申さしめ、このいのちの行く末に安心のお浄土を、今、ご用意くださっています。安心して生きておいでと、今、私を喚び通してくださっています。称名
福岡県大牟田市 明行寺 福山 智昭