法話を聞く・読む / 今月の法話 バックナンバー(No.402)
今月の法話 バックナンバー(No.402)
人は弱いからこそ 支えあって生きる
秋になりあちらこちらの学校で運動会が開催される季節を迎えました。この季節になりますとある先生がご法座の時に紹介された詩歌が思い出されます。
「びりの子は まだ懸命に 走りいて マイクは次の プログラム告ぐ」
競技は徒競走です。足の速い子はゴールテープを切りましたが最後尾を走る子はまだ懸命に走っています。しかし放送のマイクは無情にも最後を走る子を応援することなく、次のプログラムを告げている、というような情景が詠われています。生徒数の多い学校で、プログラムをスムーズに進行させなければならない事情があるのでしょう。けれども、足の遅い子はどんな思いでゴールをむかえるでしょうか。
世の中には足の速い子もいれば遅い子もいます。強い人もいれば弱い人もいるでしょう。人によって特徴や性格など本当に様々です。強い、賢いなどは世間の価値観ではすばらしいこととされています。しかし、煩悩の眼によりそれが行き過ぎてしまうと、それと反対のものは価値がないということになってしまいます。真実の智慧の眼をお持ちの阿弥陀さまは、弱いもの、劣ったもの、愚かなものを価値がないと見捨てるような仏さまではありません。
親鸞さまはお釈迦さまが生涯にわたって説かれた一代の仏教を自力と他力の二つに大別されました。自力とは自ら修めた身・口・意の善根によって迷いを離れようとすることです。表現を変えれば才能や能力の優れた「強い」人のための教えといえます。他力とは阿弥陀さまの本願のはたらきのことをいいます。才能や能力の劣った「弱い」人のための教えといえます。
仏さまがご覧になられた衆生、つまりあらゆる命、人は誰もが生老病死の苦しみを抱えた弱い存在といえます。その弱さを抱えた私たちを阿弥陀さまは決して見捨てることはできなかったのです。完璧な人間などいません。誰もが悲しみや苦しみ、弱さを抱えています。だからこそあらゆる命が平等に救われる道は他力にしかないとお示しです。ご一緒に阿弥陀さまに支えられてお浄土への道を歩んでいきましょう。
山口県光市 光照寺 松浦 成秀