法話を聞く・読む / 今月の法話 バックナンバー(No.395)

今月の法話  バックナンバー(No.395)

令和3年3月 No.395
聞思 ありのままの自分

今も昔も人間は自分勝手な思い込みで相手を沙汰ばかりにしているわけですが、それが全くの見当はずれで、後に「あのときこうすればよかった」と悔やまれた経験はないでしょうか。これは、長年お寺を支えてくださり、自らも熱心にお念仏をよろこばれたあるご門徒さんのお通夜のことです。喪主である長男さんが最後にご挨拶されたのですが、その内容は「女手ひとつで育ててくれた母への感謝と、それに応えられなかった後悔の念」であふれたものでした。その中に、遠く離れた都会で生活する長男さんと電話している場面があるのですが、ご門徒さんの会話には再三再四私が登場し、まるで自分の息子を自慢するかのように「昨日のご院家はああやった、今日のご院家はこうやった」と私の日々の成長を微笑ましく話されていたというのです。その内容はまさに私にとって青天霹靂でした。

それは、日ごろから「僧侶たるはこうあるべき」と私の言動やたたずまいを注意されており、てっきり私は嫌われているとばかり思っておりました。しかし実際はこんな私をあたたかく見守り続け、支え抜いてくださった有難い存在だったのです。今にして思えば、心のどこかに驕りや思い上がりがあり、それが幾度となく論されることを良しとせず、疎ましい存在だと決め込んでしまったことがご門徒さんの本心に耳を傾けようともせず、長年のお育てにも気づけなかったのです。

親鸞聖人の「聖」の字は「耳を呈する」からできた字であります。すなわち自らを「愚禿」と名告り、その生涯「教える人」としてではなく、「ただ導かれるもの」としてのよろこびを語られたのであります。阿弥陀さまのご本願に照らされて、聞かねばならないのは他ならぬこの私、教えられなければならないのはこの私と、お念仏申す中で徹底して耳を傾けてゆかれたのが親鸞聖人であります。

恩知らずな私にも親鸞聖人、そしてこのご門徒さんがよろこばれたお念仏が届いております。「そのまま救う、必ず救う」とこんなしらな私一人に阿弥陀さまがそのお徳のすべてを注ぎ込んでくだされたのです。そのお慈悲をお聞かせいただくより他ないことを、ご門徒さんのご仏縁で改めて教えられたことであります。

熊本県天草市 専念寺 山川 正憲

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