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今月の法話

令和6年4月 No.432
「お互いさま」許されながら生きている

 3年ほど前、妻が自転車に追突され、怪我を負いました。病院で検査と治療をし、後は経過観察ということで無事帰宅することができました。保険会社の方を通じて、相手の方から謝罪の申し入れがありました。妻が私に「どうしようか?」と聞いてきましたので「もういいよ。来られても一緒だし」とお断りしました。特に怒りや憎しみといった感情はありませんでしたが、やはり少しの嫌悪感はあったように思います。 

 その後、今度は妻が加害者側になります。同じ自転車事故で、ご老人に怪我をさせてしまいます。妻はすぐに菓子折りを持って謝りに行きました。一応の謝罪は受け入れてもらえて、妻も少し気が楽になったようでした。

 そのことを聞いて妻に「よかったね。いい顔されないのはしょうがないよ。でも会うだけ会ってもらえて、一応謝罪も受け入れてもらったから、後は保険会社にお任せするしかないね」と伝え、自分自身も一安心したことでした。

 しかし、その言葉を言いながら、以前に謝罪を断ったことを思い出し、自分の時には聞いてもらい、相手の時には聞きもしないのは身勝手だったと当初はその程度でおりました。

 今月の言葉は阿弥陀さまが私に願われる姿であります。阿弥陀さまの48の願いに、「地獄、餓が鬼、畜生」という苦しみの世界をなくすと誓われています。ですから、地獄という憎しみの世界、餓鬼という欲望の世界、畜生という自分を省みることのない世界をなくしてくださる仏さまです。

 私が謝罪を断った「もういいよ」という言葉には「お互いさま」という心はありません。当然「許されながら生きている」ということも否定されます。もし世の中が、「お互いさま」の心がない方々ばかりの世の中だったとしたらどうでしょう。許されることのない世の中になってしまいます。そうなりますと過ちも失敗もできない、苦しく、辛い世の中になってしまうのではないでしょうか。

 また、私にご老人とその家族の方が一安心をくださいました。謝罪してくださったその方には、ご本人だけではなく周りの方もいらっしゃいます。私の「もういいよ」と言った心によって、実はその方々も巻き込んでしまっていた事実を見る時に、「許されない」世の中においては「許さない」心が広がりやすい様に思えます。けれども、「許される」の世の中には「許す」心が広がっていきやすいのではないでしょうか。そしてその心が「お互いさま」であり、それはとても尊い心で、如来さまが私に願われておられる姿でありました。

 親鸞さまがこのようにご和讃に詠われております。

 罪障功徳の体となる
 こおりとみずのごとくにて
 こおりおおきにみずおおし
 さわりおおきに徳おおし。

 阿弥陀さまは私に身勝手で罪深い心と気づかせることによって、今度はその心を徳にかえてくださるんですよと仰ってくださいました。「お互いさま」許されながら生きている。共々にお念仏に聞かせていただきましょう。

広島県山県郡 安養寺 小林 邦顕

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