法話を聞く・読む / 今月の法話 バックナンバー(No.421)

今月の法話  バックナンバー(No.421)

令和5年5月 No.421
本願力にあいぬれば むなしくすぐる人ぞなき

 「皆さまは、なぜこの今月の法話を読んでいらっしゃるのでしょう?」それぞれに、様々な理由があられるかと思います。では、私たちはなぜ、今、仏さまの話を読む身に、聞く身になったのでしょうか。ご縁があれば仏さまの前に座り、手を合わせて、「南無阿弥陀仏」と、お念仏を申し、頭までさげ、法話を聞いていらっしゃるかもしれません。不思議ですよね。何もないところから、今の姿は生まれなかったはずです。

 私事で恐縮ですが、息子の4歳の誕生日にあたって、「誕生日プレゼントは何がよかとね?」と聞くと、息子は「キッチンセットがよか」と答えました。シンクにコンロに収納に調理器具、包丁で切るとパカッと割れる食べ物までついた小さなキッチンセット。早速注文し、誕生日を迎えます。「さぁ、念願のキッチンセットぞ」とお披露目すると、息子は喜んでキッチンセットに駆け寄り、最初に蛇口をひねったのです。そして、一言「ありゃ、水の出らん」もちろん、水道管も水源もありませんから出るはずありません。「源」がないのです。何もないところからは出るはずがないんです。それでは、もう一度質問いたします。

「皆さまは、なぜこの今月の法話を読んでいらっしゃるのでしょう?」

 そう「源」が宿っているからこそです。阿弥陀さまは「あなたのいのち、むなしく終わらせはしない。死んだらしまい・負け・消えてなくなる・無になる・ゴミになる・残されたものと分断させられる…そんな悲しいいのちにはしない。あなたをお浄土の仏とするぞ。生きて、悩んで、苦しんで、もがいて、あがいているものに、寄り添い、導いていく尊い存在にするぞ。何があってもだ。われにまかせよ。必ずすくう」と「南無阿弥陀仏」の声の仏さま、言葉の仏さまと仕上がって、私のこの身に入り満ちて「源」となってくださっています。どこか遠くにいらっしゃって「あら~、つらそうね。かわいそうね」と眺めているような仏さまではありません。何があっても、どんなことがあっても、今、ここで、ご一緒くださる阿弥陀さまでありました。まさに「
功徳みちみちて煩悩濁水へだてなし」であります。

 だからこそ、手が合わさっているのです。お念仏申す身に育てられ、頭までさげて、法話まで聞いているのです。死んだらしまいのいのちではないのです。敗北に向かって進んでいるいのちではないのです。むなしくないのです。まさに「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき」であります。阿弥陀さまに遇うために私の方が探してまわる必要はありませんでした。私のために「南無阿弥陀仏」と届いてくださったのが阿弥陀さまでありました。お念仏の響きの中に、よび声の中に、いつだって遇あうことができるのです。

 春は目には見えません。桜の花や、菜の花が咲き誇る姿に、春を知らされます。
 風は目には見えません。木々が揺れる姿に、風を知らされます。
 阿弥陀さまは目には見えません。お念仏申す姿に、阿弥陀さまを知らされます。

南無阿弥陀仏

佐賀県嬉野市 證誠寺 橋本 孝生

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