法話を聞く・読む / 今月の法話 バックナンバー(No.424)

今月の法話  バックナンバー(No.424)

令和5年8月 No.424
しみみに共感できる自分でありたい

 あるとき、杉山さんの「わからない」という詩を紹介していただきました。このような詩です。

 お父さんは お母さんに怒鳴りました こんなことわからんのか
 お母さんは兄さんを叱りました どうしてわからないの
 お兄さんは妹につっかかりました お前はバカだな
 妹は犬の頭をなでて よしよしといいました
 犬の名はジョンといいます (杉山平一『希望』)

 この詩を読んだとき、我が家の日常の光景が頭に思い浮かびました。我が家は5人家族。夫婦の元に双子の女の子と、男の子という構成ですが、毎朝、私の一日は娘の絶叫と共に始まります。何が起きたかはわかりませんが、ほんのちょっとでも思い通りにいかないことが起きると泣いたり叫んだりしています。そんな声がダイニングから聞こえてくると、間髪置かずに今度はお母さんの「いいから早く着替えなさい」「勉強しなさい」「ご飯食べなさい」と、叱る声が聞こえてきます。今度は叱られたものだから、その怒りの矛先を、お姉ちゃんに向けていくんです。すると、なんで自分が怒られなくちゃいけないのかと反論が始まり、どんどんと負の連鎖が巻き起こり、みんなイライラしています。そんな雰囲気の渦巻く中で、最後はベッドの中でまだまどろんでいる父親である私の元に、姉妹のどちらかが飛び込んでくるのです。そのとき、ぎゅっと抱きしめて頭をナデナデしているとだんだんと心が落ち着き、平静な状態に戻っていきます。この詩の通りで、怒りの渦巻く中で、それを収めていくにはぎゅっと抱きしめ、受け止めて、ナデナデをするのが一番なのです。ただ、私もその怒りの渦の中に一緒に身を置いているときは、その行動をとることができませんが。

 さて、この詩に話を戻しますと、杉山さんはこの詩に「わからない」というタイトルをつけたのです。なぜ「わからない」としたのかが私には最初わかりませんでした。しかし、何度も何度も読み続けているうちに、見えてきたのは、みんな「人の気持ちがわからない」ということではないかと思うのです。怒鳴られる、叱られる、つっかかられる側の立場に身を置いて物事を考えてみたときにはグッと飲み込む言葉も、相手の気持ちを思うことがないから平気で言い放ち、人を傷つけていく。そんな中で、唯一相手の気持ちを考えたのが、この妹さん。本当は犬・ジョンは何も悪くないのに、自分のいら立ちをジョンにぶつけてしまったら、ジョンに申し訳がない。自分の苛立ちをジョンにぶつけそうになった自分自身を反省して、最後はごめんねとナデナデをしたのが妹さんだったのかもしれません。

 今月の言葉は「悲しみ痛みに共感できる自分でありたい」というものです。悲しみ痛みに共感し、それを解決していく心、それをと言います。仏教において一番大切にしている精神です。慈悲の「慈」はいつくしみをあらわす言葉で、全ての命を分け隔てなくしんでいく心。「悲」は悲しみの心で、人の悲しみを我が悲しみと引き受けて、その悲しみを除こうとする心を表します。その心を持った方を仏さまと言い、そのようなすがたになっていくことを目指す教えを仏教(仏に成る教え)と言います。浄土真宗も仏教ですから、目指している姿はその慈悲の実践にこそあるのです。

 しかしながら、この慈悲の心を大切に生きていこうと思ったとき、この慈悲の実践からかけ離れた姿で生きている自分自身に気づきます。先ほどの話の如くに、自分の想いにまかせ、思い通りにいかなかったならば人に当たり散らし、そのことを何とも思わずに生きている自分自身に出会うのです。ただ、慈悲を大切に思って生きていこうと決めたとき、それは恥ずかしいことなんだと気づきます。慈悲を大切に思わないうちは、みんな自分のことしか考えずに生きている、それの何が悪いくらいに思っていたはずです。しかし、慈悲の精神を尊いものと考えるようになったときから、そこからほど遠い所を歩んでいることは恥ずかしいことなんだと感じるようになっていきます。それは慈悲を仰ぐ中に始まっていく道なのです。だからこそ、私たちは慈悲を仰ぐということを大切にしていきます。「悲しみ痛みに共感する」ということは簡単なことではありませんが、その精神をもって生きていくことは大切にすべきことなのです。

福岡県行橋市 両徳寺 舟川 智也

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