法話を聞く・読む / 今月の法話 バックナンバー(No.425)

今月の法話  バックナンバー(No.425)

令和5年9月 No.425
彼岸 いのちの灯が相続されていく

 「灯」ということばは、「火をつけて闇を照らす」という意味だけでなく、仏の教えを指すことばでもあり、世の中の闇を照らす仏の教えを「灯」と例えます。

 さて、宇宙から見た地球の写真や映像をご覧になられたことがあるでしょうか。漆黒の宇宙空間の中で、地球が綺麗に光り輝いている様子は、神秘的で美しいばかりです。しかし、「地球は光り輝いて見えるのに、宇宙はなぜ漆黒に見えるのか。太陽の光は宇宙を通過しているはずなのに、なぜ地球だけ輝いて見えるのか」とふと疑問に思いました。調べてみると、地球には空気があり空気中にある微粒の塵に太陽の光が反射して、輝いて見えることがわかりました。その環境があるからこそ、地球は遥か彼方にある太陽から明るさやぬくもりなど、多くの恩恵を受けることができるというのです。それに対して宇宙空間は、真空状態で空気もなく光を反射する環境がないので、暗くて冷たいというのです。光そのものが明るいわけではなく、光を反射する「めあて」がなければ、その明るさやぬくもりを感じることができないということが、当たり前のようで改めて驚きでした。太陽によって照らされている私たちですが、仏さまも私たちを照らしてくださっています。

仏説阿弥陀』には、十方のあらゆる国をくまなく照らし、すべての衆生をさわりなく救いたまう、量り知れない光明の徳をもっておられるから「阿弥陀仏」と名づけたてまつると説かれています。太陽は意思をもって何かを照らしているわけではありませんが、阿弥陀さまの照らすところには、明確な意思(願い)あります。その光明のめあては、「生死」という、生まれ、齢を重ね、病になり、そして命終えていく根本の苦しみです。「生死」という自分の思い通りにならない苦悩を抱え、そこから抜け出すことなく迷っている私たちこそが阿弥陀さまのめあてなのです。我が家に今年で九十八歳になる祖母がいます。お寺に嫁いだ当時のことや戦時中の苦労話など、昔のことは鮮明に活き活きと話してくれますが、現状については、愚痴をこぼしたり弱音を言うことも増えてきました。年々足腰も弱り、忘れることも多くなり、身も心も思い通りにならない自分自身に対して、情けなさや口惜しい思いが強いのかもしれません。そんな祖母ですが、日課である朝のお参りは欠かしません。朝食前に必ず本堂に座り、阿弥陀さまに向かって手を合わせ、普段は愚痴や弱音の多い口から、「南無阿弥陀仏・・・」と、お念仏がこぼれてきます。祖母のお念仏がこぼれてくるすがたから、まるでご法話を聴聞したような思いになります。「苦悩を抱え、思い通りにならない我が身だけれども、この身がそのまま阿弥陀さまのはたらく場所だったよ。生きるか死ぬかのむなしい人生ではなく、阿弥陀さまに照らされ支えられ、この人生を歩み抜ける道が共々にあるんだよ」と。祖母の姿をとおして、大事なことを教わっているような思いになります。

「いのちの灯が相続されていく」という言葉をとおして、さまざまな人生の中で阿弥陀さまのおこころを「灯」として、お念仏されてきた先人の方々を思います。「私の苦悩の闇を照らしてくださる阿弥陀さまがおられたよ。この阿弥陀さまによってお浄土(彼岸)に参らせていただくのですよ」と相続されてきたお念仏を、私も祖母も称えさせていただいています。太陽に照らされるところに明るさやぬくもりがありますが、仏縁にしか味わうことができない、明るさやぬくもりがあると思います。

熊本県熊本市 両厳寺 郡浦 智明

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